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これは、MIAの語り部であり、実践者である今井清二郎氏が、富岡の青年会議所のメンバーにMIAについての熱き思いをメールでつづったメッセージです。
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小野さんについて
 


【 質問に答えて 】

 ある人からムーチョ小野正孝さんのことについて、質問をいただきましたので答えました。

【 質問 1 】
今の時代は先行きの不透明な混迷する時代です。もし、小野さんが生きていたら、どんなことを言っていると思いますか?


 小野さんが生きていたら・・・・・・
生きていたら、何をして、どんなことを言っているでしょうね。
私も聞きたい。そして、また小野さんからいろんな事を教えて貰いたい。
 でも、こればかりは叶わぬことです。
小野さんがどんなことを考えるのか、私に想像しろと言うのも無理ですね。
 私が想像できるのは、私のレベル。小野さんは、それをはるかに越えた存在。
 そういう人が世の中にはいるんですね。
だから、生きているときに言った言葉を大切にしているんです。


 論語の中に、顔回という弟子のみた孔子像があります。
 使ってある漢字がパソコンでは出ませんので、私の意訳(誤訳かもしれませんが)で解説します。もう2,500年も前のことですが、偉大な人物と弟子の関係を良くあらわしています。

「顔淵(顔回のこと)が、いかにも感に堪えないと言った様子で、ため息をつきながら言った。
 先生は、普段は優しくて、何でも必要なことを私たちが分かるように教えてくれるから、なんか先生は空気のような存在にも感じている。しかし、改めて先生を仰げばとてつもなく高いところにいて、とても我々の手に届かない。

 また、先生は柔軟に見えるが、実は信念が強固で優柔不断なところは探しても少しもない。我々の先に出ているかと思えば、いつの間にか後に下がっている。変幻自在だ。先生は夫子循循、毅然としていて、その人間性は、とてつもなく大きく、誰でもがその魅力に引き寄せられてしまう。先生が自分の考えを述べるときには、誰にでも理解できるように諄々と諭す。

 また、どんな人に対しても、人と接するときには、礼を尽くす。先生と接していると、自分が出来ないと思っていても、ついその気になってしまう。私自身も、自分の持てる力はすでに出し尽くしてしまったほどだ。やっと追いついたかなぁと思うと、もう先生は及びもつかないような高いところにおられる。何とかついていこうと思っても、どうにもならない。
 これが、先生だ。」


 私も、小野先輩とお付き合いをして、同じような感じをもちました。
 小野さんは、自分が得たこと、考えること、もっている道具、すべてその過程や方法論まで我々に分かるように解説してくれました。
だから、小野さんと同じことをやれば、我々でも同じ結果は得られた。
 それで、小野さんに近づいたと錯覚してしまうのです。だけど、それは小野さんのほんの一部なのです。一部だけ小野さんと同じことが出来たからといって、小野さんと同じにはならないんですが、そういう気にしてしまうところが小野さんの魅力なのです。だから、誰でも虜になってしまうのです。
 そんな人なんです。


 私が今までに出会い、自分が全ての面で心酔することの出来る人は、この小野さんと、掃除道の鍵山秀三郎さんの2人です。鍵山先生のことはここでは触れませんが、私の人生の中で、生涯の主とも言える素晴らしい2人に出会えたのは、大変幸せなことだと思います。
 私はいつも、小野さんなら、鍵山さんならどういう行動をとるだろうか?、と考えますが、その考えはたぶん私のレベルで、お2人は全然違った範疇で発想するに違いありません。


【 質問 2 】
今井さんが小野さんと最後に交わした言葉は、どんな事でしょう?
ミーハー的な質問ですが、すごく興味があるのです。

 小野さんが38歳の時、日本青年会議所の副会頭でした。四国の会員大会のメーン講師に呼ばれた小野さんは、講演中に倒れました。十二指腸潰瘍が破裂してしまったのです。
 病院に担ぎ込まれて、寸刻を争う手術をしました。
 小野さんの血液型はAB、日本人は10人に1人です。その貴重な血液をもっている仲間が38人も病院に駆けつけました。それで、小野さんは一命をとりとめたのです。
 命を救われた小野さんは、献血者一人ひとりに感謝を捧げると共に、ますます青年会議所運動に情熱を傾けました。
 

 

 それからたった1年半後、激烈な会頭選挙を勝ち抜いて会頭に就任しました。
会頭時代の小野さんの活躍は、ホームページをご参照下さい。

 そして、私たちがMIAの指導を受けたのは、小野さんの死去するちょうど一年前でした。
半年指導を受けたとき、小野さんは病気が再発して、群馬県の万座で静養となりました。
私たちが直接指導を受けたのは、だから、半年だけなのです。
 そして、亡くなる二ヶ月前に再手術のために、最初に執刀していただいた先生のいる四国の高松市、三宅病院に入院しました。
お尋ねの小野さんの我々に対する最後の言葉は、病院からの手紙でした。
 原稿用紙に手書きの手紙は、乱れもなく小野さんらしいしっかりとした筆遣いでした。
以下にご紹介します。

今井清二郎大兄外MIA諸兄

 全く、どうしようもなく、小生も人間のようで、一人前に病気を受けてしまいました。
 気の病からといわれますが、本当にこのところダブルパンチを受けてしまいました。
 娘を亡くしたと思ったら、母を亡くし、こんなことが重なるなんて本当に世の中だなぁーと自分事に直面をしてみてつくづく感じています。
 でも、私は霊魂は不滅だと信ずるものです。
 どうも病室の中に入ってしまっていると下界とはかけ離れてしまい、第三者的にみますが、MIAの必要性はますますと言ったところですね。どうか、SDJの事務所を使って大いに皆様で研究を重ねて下さい。期待に期待をしています。必ず成功するすばらしい事です。
 中西君、横山君、小野君、柏谷君、久保田君全員頑張ってやって下さい。
 この手紙は回らんしてください。
住所録がないために今井君に代表して送ります。 (原文のまま)


 私たちは、経過が順調と聞いていましたので、お見舞いにも行きませんでした。
 後で奥さんや一番身近にいたSDJ事務所の大野副社長から、亡くなるまでの様子をお聞きしました。
 それによりますと・・・・・・・・・


 心配していたガンの発生はなく、十二指腸潰瘍の手術は成功しました。
 小野さんは、入院していても、毎日日課の「般若心経」の写経をしていました。
 そればかりではなく、今日は部屋の掃除が出来た、などと何か目標を決めて少しでも出来ることを喜びとする、という習性は病院に入っても変わらなかったといいます。
 手術後、一週間ほどで、まだ安静が必要にもかかわらず、自分で立ち上がって便所まで歩きました。お腹にも力が入ってしまいます。
特に腸の手術は、細い血管の縫合をしていますので、安静が必要なんだそうです。
 それに、ほかの筋肉と違って、腸は毛細血管が発達していなくて、一カ所がきれてしまうと、全体が壊死してしまうのだそうです。つまり、血管は一方通行ということでしょう。
そして、小野さんは、手術した箇所がきれてしまい、再手術も出来ず、ついに死亡してしまったのです。1975年11月14日のことです。

 小野さんらしい死です。小野さんの精神力と、いつでも行動していなければ気が済まない行動力が自らの命を絶ってしまったのです。
本当に残念なことでした。

 残された私たちは、プログラムの完成を目指しました。
そして、翌年の5月、東京品川の高輪プリンスホテルで開かれた「小野正孝追悼会」に完成したプログラムを持ち込み、参加者全員に配布したのです。
 ちなみに、MIAプログラムの内、小野さんが直接目を通している部分は、「On Youre Mark」、「第1ステップ、自分自身のチェック」、「第2ステップ、企業のチェック」までで、全体の3分の1だけです。以降は、我々が小野さんの考えを推察して作り上げました。
 しかし、全体を流れる骨子は小野さんと既にディスカッションしていましたし、MIAのオリジナル発想はすべて小野さんから出ているもので、それ以上ではありません。
 最後の手紙が私たちへの遺言となりました。
 この手紙があったからこそ、プログラム完成のパワーとなったことは言うまでもありません。

2001.10.3 今井清二郎
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